※短編小説です。
夏の日差しが眩しい。キャンプには丁度良い天気だ。
前夜に軽く雨が降っていたので心配していたのだが、問題はなさそうだ。
新しい趣味としてキャンプを始めたが、今回はステップアップして所謂キャンプ場ではなく、山中の少し開けた場所で一泊する。
正午には着く予定だったが、テントを張るのに良い場所がなく、見つけたころには16時を過ぎていた。
さらに、もう一つ問題があった。
すでにテントが張ってあるのだ。どうやら先客が居るようだ。
実は山奥に一人だけでは不安があり心強さは感じたのだが、ここまで来てご近所トラブルは困る。
もう少し離れた所にテントを張る事にするが、一応挨拶はしておこう。
一泊とは言えお隣さんなのだ。
テントに近づく。
一人用のテントの前に、大きめの折り畳み式の机が置いてあり、その手前に、こちらも折り畳み式の椅子が置いてある。
人影は見当たらない。どうやら、一人で来ているらしい。
焚火が消えているところを見ると昨日から居るのかもしれない。
テントの中に居るのかもと声をかけてみる。
「こんにちは」
反応はない。散策でもしているのだろうか。
しかたがない、タイミングがあればその時に挨拶しよう。
そう思い、振り返る寸前に机の上のマグカップに目が留まった。
白い普通のマグカップだったが、中には水が並々入っている。
水を入れたままどこかへ行ったのだろうか。
不思議には思ったが、そろそろテントを張らなければ暗くなってしまう。
私はその場を後にし、テントを張る場所を探しに行った。
夕方になると蝉の声もやみ、偶に聞こえる鳥の鳴き声と木々のせせらぎが、心地良かった。
私はテントを張り、火をおこし、椅子に座ってココアを飲んでいた。
都会の喧騒を離れ自然の中で優雅に過ごす。まさに今回のキャンプに求めていたものだった。
ふと気が付くと、焚火の傍に白いものが転がっている。テントを張り終わった頃には暗くなっていたので、火を起こすまで気が付かなかったようだ。
拾い上げると、白いマグカップだった。ほとんど汚れていなかったので、一瞬、お隣さんの物かと思った。
しかし、よく見ると持ち手の部分が歪んでおり、耳の様な形になっている。先ほど見たものとは別物だった。
誰かが落とした物とはいえ、一度拾ってしまえば捨てるのはしのびない。
流石に使う気はしなかったので、持って帰って捨てる事にした。
机代わりのクーラーボックスの上に置き、引き続き大自然を楽しむ。
夜も更け、そろそろ寝るかと、焚火を消す。
電灯が無ければ、ほとんど周りが見えない。かすかな月明かりが頼りだった。
テントに入る前に、残ったココアを飲み切る。拾ったマグカップか、自分の物か、暗くて見分けがつかなかったが、拾った方は持ち手が歪んでいるので、持ってみれば分かりやすかった。
ココアを飲み干し、寝袋に入る。自然の奏でる子守唄を聞きながら、目を閉じた。
翌朝、歪んだマグカップがなくなっていた。
やっぱりお隣さんの物だったのだろうか。こっそり回収していったのかもしれない。
わざわざ持ち帰る必要がなくなったので、ありがたかった。
朝ごはんを食べ終わった後、珈琲を飲み。キャンプ特有の朝を堪能する。
しばらくした後、重い腰を上げ片付けを始めた。テントをたたみ、机もたたみ、ゴミを回収する。次回はもう少し荷物を減らそう。
今回のキャンプを振り返りながら、帰路についた。
お隣さんに挨拶をしようかとも思ったが、少し気まずかったので、やめておく。
帰りの車を運転しながら、ふと歪んだマグカップの事を思い出した。深く考えていなかったが本当に隣人が持って行ったのだろうか。
夜は暗い。あらかじめ私が持っていると知らなければ持ち帰れないだろう。
明かりをつけて探す事も出来るが、わざわざマグカップを夜に探すだろうか。
となると、朝、私が起きていないうちに、回収したという事になる。
普通マグカップがなくなれば、近場を探す。私のテントは近場ではあるが、転がっていくような距離ではない。
日が昇り、私が起きるまでの間に、私のテントにマグカップがあることに気が付くようなことがあるのだろうか……
そこまでして、探す理由がマグカップにあるのだろうか……
やめよう。
私は大自然を堪能するためにキャンプをしたのだ。わざわざ人の事を考えるなど…
待てよ。
瞬間、私は、隣人がキャンプをしていた場所の情景を思い出した。
一人用のテントの前に、大きめの折り畳み式の机が置いてあり、その手前に、こちらも折り畳み式の椅子が置いてある。
なぜ隣人は、机を挟んで、テントと向かい合わせに座っていたのだろうか。
キャンプに来る目的は自然とのふれあいだ。普通ならテントを背に座るはず。
私の脳裏に、考えたくもない情景が浮かんだ。背筋を汗が這う。
もし、隣人のテントの中を見ていたのなら、もしマグカップを持ち帰っていたのなら。
私は頭を振り、今思いついた、妄想じみた考えを文字通り振り払おうとした。
そして、一目散に家へ車を飛ばしたのだった。
一週間がたち、私の妄想は現実となった。
山奥で男の死体が見つかったのだ。服毒自殺とみられているらしい。
私はそれが自殺ではない事を知っている。
隣人の白いカップには水が並々ついであった。
あの日の前夜は雨だった。翌日は晴れていたので机の上は乾くだろうが、マグカップに水が溜まればなくなる事はない。
何より、あの日の夜は月明かりしかなかった。離れた場所とはいえ、焚火や電灯が付いていれば分かる。
そう、あの日の時点で隣人はテントの中で死んでいたのだろう。
では、誰が歪んだマグカップを持って行ったのだろう。
簡単だ。もう一人いたのだ。大き目の机は二人用だと考えると妥当だ。
テントと向かい合っていたのではない。もう一人と向かい合っていたのだ。
犯人は、男とキャンプに行き、マグカップに毒を盛った。自分は歪んだマグカップを使えば暗くなっても間違って飲むことはないだろう。あの日の私のように。
そうして、毒殺したのち、テントに運び、自殺に見せかける。自分の荷物は持ち帰り、一人だと見せかければ、細かい証拠は自然がけしてくれるだろう。
だが途中でマグカップがない事に気が付く。慌てて引き返すと私のテントが張ってあるわけだ。寝静まるまで待ち、歪んだマグカップを回収すれば……
すべての辻褄があってしまった。
私は震える手で電話を掛ける。どうか私の妄想であって欲しいと願いながら。