例えば
人が溺れていたところ危険を顧みず助けた人がいて。
その様な機会が全くない、心優しき人もいて。
はたしてどちらがより優しい人だろうか。
世論は前者をより優しいとするだろう。実際どうかは関係なく認知度の問題だ。
では後者は優しさという面で劣っていたのだろうか。
その時点ではそんなことはないだろう。機会がないから劣ると言うのは理不尽だ。
では等しく優しいだろうか。命を懸けて人を助けたのに?
では、平等に機会を与えるべきか?溺れたての所悪いがもう一度。
流石に駄目だろう。
要するに、右頬をぶたれないと左頬は差し出せないと言う話だ。
世の中には理不尽や苦労、不幸が存在している。少し不謹慎だが、それらをチャンスや試練と言うことがある。私は宗教の知識が全くない。文化的な宗派はあるが、思想的な宗派は持っていない。それでも聞きかじった知識の中にはそのような逆境を乗り越える教えが多くあると思う。乗り越えたものには栄誉があるのだろう。
では全く何の苦労もなく幸せに過ごした人は何も得られないのだろうか。
私は思う。ある一瞬の、たった一回の、その行動で人を決定づける事は出来ないのだと。結局日々の事なのだ。着々と毎日続けたことが人をなすのであって、だた一度の善行では蜘蛛の糸がいいところなのだ。
そこで最初の疑問に立ち戻る。私の答えはどちらも等しく優しいだ。
宗教であれば日々の信仰心を、そうでなければ自身の信念を、どれだけ日々の行動に出来ているかが重要なのであって、それらを阻む試練それ自体に意味はなく、乗り越えたところで毎日の中の1回に過ぎないのだと思う。
それでも、不幸を乗り越えた人をどこか羨ましく思うのは、きっと自分が幸福だからなのだろう。そして、幸福なのに確固たる信念が無いからなのだろう。