名前はまだない

6割のフィクションと2割の嘘1割の真実で構成されております。

言い訳とカップ麺と脇役と

今週は書きたいような事も起こらず、何となく書く気分にもならないので、どうしたものかと。

書きたいときに書けばいいじゃないかと思うのですが、そういう事は事前に決めておかないとただの言い訳に聞こえるし、週一回は更新したいと決めていたのでやはり罪悪感があります。

そういう訳で色々頭を回して、何を書こうかと考えていました。

あえて全く興味の無かった物を調べて、それについて書こうかと思いましたが、それなら、ちゃんと書きたいなと思ったので今日じゃないなと。

それならいっそ、わざわざ書くほどじゃないなとボツになった者たちを羅列していけばいいなと思いまして、そうしようと思います。

 

カップ

私はお湯が沸くまで待っているのが苦手です。ほかに何かするのが難しいからです。お湯が沸く時間は何故か予想しにくい気がしてます。

そろそろ沸いたかなと思ってみると、まだ小さい気泡がなべ底についてるだけ、

まだ大丈夫だろうと思っていると、沸騰していて水かさが減ってしまっています。

特にカップ麺などの為にお湯を沸かしている時はキッチンで他にすることも無いので、大抵は沸騰する前にお湯をカップに入れてしまいます。

そうすると指定の時間待っても少し麺が固いという問題がありまして、3分であれば4分待つことにしています。結局1分余計に待つのなら、お湯が沸くまで待てばいいじゃないかと思いますが、

これが存外効率が良く、お湯が沸くまでキッチンで縛られているより、カップ麺を待つ時間の方が好きな事で時間がつぶせるのです。

 

②脇役

先日ランニングをしていた時の事です。正確にはジョギングぐらいのペースでした。

最近は寒くなってきたこともあって人が少なかったのですが、その日はやけに学生がおりました。

よくよく考えると今日はバレンタインデーだったなと思い、そうしてみてみるとカップルが多いなと気が付きました。実際にカップルだったのかは結構微妙な所です。無事成功した帰りなのか、これからなのか、はたまた元々カップルで来ているのか。確率的には8割カップルと言っていいかなと思います。

そんな中残りの二割がおりまして、ベンチに座って包装紙に包まれた箱を手渡ししているところに通りかかりました。

何だがドラマのワンシーンで、告白している所の後ろでランニングしている人の気分になりました。実際その人だったわけですが。何となく雰囲気づくりの一助に慣れた気がして、勝手に嬉しくなっておりました。

 

 

笑うフライパン

今日もフライパンが笑ってる。

 

毎朝、珈琲を淹れる。

習慣と呼んでいいのか判断に困る程度に繰り返している。

珈琲を淹れるには当然お湯を沸かす必要があるわけだが

私は朝から水の量を厳密に測るほど几帳面ではない。

大は小を兼ねると言うように大抵は多めにお湯を沸かす。

 

書いていて不思議に思ったのだが、

『お湯を沸かす』という言い回しには少し違和感がある。

沸かしているのは水で沸かした後にお湯になるのだから

氷を凍らせているようなものである。

 

話を戻すと、私は几帳面ではない。

使う器具は、薬缶でも小さ目の片手鍋でもなくフライパンである。

するとどうなるか。


ご丁寧に鼻までついている…

よく聞くけど、全く覚えられない現象の一つ

シミュラクラ現象

 

事象に名前が付くと趣深く感じる場合と陳腐に感じる場合があるが、この場合は後者だと思う。

シミュラクラ現象」と言うより、「フライパンが笑っている」と言う方が好みである。

 

という訳で、何がどうという事ではないのだが、

ここ最近フライパンの機嫌が良いので楽しいよと言う話だ。











 

冥府の旅の一寸塚

冥府の旅の一里塚という言葉を知りました。

正確には一休宗純が詠んだ句らしく

 

門松や冥府の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

 

とのこと。

 

お正月を迎えると、めでたい様だが死に一歩近づいてるのでなんだかなぁ

みたいなことらしいです。

昔は皆、お正月を誕生日として祝っていたそうなので、歳を一つとるごとに死に近づいている感じがしたのだと思います。

 

私はこの句を聞いて、少し嬉しくなりました。

それと言うのも、友達相手に、自分の誕生日に

「死に一歩近づいたわ」と冗談を言っていたのです。

 

自力で凄い人と同じ発想に至っていることを嬉しく思いました。

世の中には同じ様な人が山ほど居ると思うので、特別な事とは思わないですが、

外から得た思想ではなく、内から出た思想が広く認められているのが嬉しいのです。

 

まぁ皆が思う事だから、広く共感が得られていて、特筆すべきは表現方法の方な気もしますが。

車輪の再発明」の記事でも書きましたが、最近は外から思想を取り入れる事が多いので

こういう事が少なく、久しぶりに嬉しくなったという話です。

 

私は何より死ぬのが怖いので、日々を大事に生きていこうと思います。

忘れがちなので結構細かめに…一寸塚ぐらいで生きていきたいです。

 

 

名前を考えるのは難しい

筆名を考えよう。

小説を書いていて、いざネットにアップとなった時に筆名がいるなと思い至った。

何を今から作家気分な…と思われるかもしれないが、そもそも「死ぬまでに一冊は本を出したい」と書き始めたのだから筆名も考えていないのは不真面目ともいえる。

 

改めて今までに命名をしたことがあったかと考えるとパッとは出てこない。

ゲームやSNSに登録するニックネームを決める事はあるが、命名と言う程の大層なものではない。

 

筆名を決めるのも客観的には大層なものではなのだが、個人的には結構重要なのだ。

 

「名は体を表す」と言うが、名が体に表れているのか、体が名に表れるのか。花や鳥は体を見て名付けるのだから、「名が体を表す」のは至極当たり前なので、この場合は、体がまだ無い物に対して名付けた名前が、体に表れている事を指している気がする。

 

そう考えると「名は体を表す」は人に対して使う言葉なのだろうか。

 

どちらにしても命名と言うのは一種の呪いのようなもので、今後に全く無関係かと言われるとそんなこともないと思う。

 

そういう訳なので、私の筆名は現在までの私を表した名よりは、今後の展望を表した名にするべきだろう。かと言って過去を無かった事には出来ないので、そこも含めて命名したい。どうせなら工夫があった方が面白いし、語感や縁起がいいものが良い。

寿限無寿限無

 

結局あれこれ考えたがしっくり来るものが無く、もうしばらくは名無しで書き物をしようと思う。

ちなみにこのブログの「名前はまだない」は本当にまだ決まってないだけなので、こちらも決めなければならない。

『ことわざ』と教訓

『ことわざ』は好きな方だ。

何となく知った気になるし、人にアドバイスをする時もそれらしく聞こえる。

失敗をした時も『ことわざ』一つで教訓を得たような気分になる。

 

しかし 改めて考えてみると、『ことわざ』からは、何の教訓も得られない。

そもそも状況を例えているだけなので、比喩の様なものだ。

 

アドバイスをするにしても相手の状況を考えてする。

相手がもう少し我慢した方が良いと思えば「それは、石の上にも三年だよ」と言う。

 

結局、我慢した方が良いかは自分で判断しており、『ことわざ』がそれを教えてくれることはない。

 

別の場合には、「善は急げ」と言うし、「急がば回れ」ともいう。

「果報は寝て待て」「継続は力なり」「雨垂れ石を穿つ」「塵も積もれば山となる」「急いては事を仕損じる」「待てば海路の日和あり」

と言ったかと思うと

「思い立ったが吉日」「鉄は熱いうちに打て」「旨い物は宵に食え」「好機こうき逸いっすべからず」

とも言える。

 

ではどうすればいいのか

「機に縁りて法を説け」 という事になる。

 

これでは、何の教訓も得られない。

あけましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。

ブログを書き始めて半年ほど経ちました。

月に二、三回ほどの更新ですが程々に続けられて良かったです。

嬉しいことに読んでくださる方もおり、大変嬉しく思っております。改めてありがとうございます。

ブログ自体の方向性が定まっておらず定期的には読むには向かないかなと思いますが、その内考えたいなと思ってます。

 

さて、新年となれば一年の抱負ですが、今年は挑戦の年になるかなと思っています。

今までの経験則から具体的に公言すると実行しなくなることが多い気がします。

なので、何をどうこうとは言わないですが、やりたい事がありまして頑張ってみようかなと。

 

割と人生の分岐点かなぁと薄っすら思っております。

大袈裟かもしれませんが、何となく最近時間が足りない気がしてきて、謎の焦燥感に襲われています。

 

余り中身のない新年の抱負になりましたが、本年も宜しくお願い致します。

やりたい事を成し遂げたら、また報告します。

 

12月24日

折角のクリスマスなので少しちなんだ話を書こうと思い、ここ数日頭を捻っていた。

ブログを書き始めて良かった点は普段しないことをやってみる気になるところだ。

今までなら、電車に乗って20分の帰り道を2時間かけて歩こうとは思わなかっただろう。

 

町を歩いていて最初に思ったのはイチョウの木がまだ葉を残していた事、イルミネーションがされているのは葉が落ちている木ばかりだという事だった。

遠くから見ると木の幹から枝へ沿うように光っており、木の淵が浮かびあがっている様だ。

なるほど、葉が残っているとライトをつけるのも大変だろう。

少ない根拠で勝手に心中を察しながら、だとするとクリスマスツリーは大変なのかなと思った。

 

後で調べた事だが、所謂クリスマスツリーとは永遠を象徴する常緑樹への信仰が元となっているそうだ。ライトアップ自体はエジソンが流行らせたとか何とかで、それなら落葉樹でも問題ないかと落ち着いた。

 

その他にも赤、緑、白の色にも意味があったり、飾り付けにも理由があったりと中々興味深かった。

宗教的な部分が多くトンチンカンな事を書くと怖いので、詳細は控えさせていただく。

 

結局、家に着くまでに何かアイディアが浮かべば良かったが、何も浮かばなかった。

まぁ仮にどれだけ面白い事が書けたとしても、今日ばかりはネットより現実の方が楽しいだろう。

私もケーキが食べたくなったのでこの辺りでいいかな。

メリークリスマス